“プレバト俳句”再視記(さいじき)

バラエティ番組「プレバト」の人気コーナー『俳句ランキング』を振り返り。芸能人たちの才能と、毒舌・夏井いつき先生の評価や、いかに!?

お盆の帰省ラッシュ(8/10放送分)

time 2017/08/10


◎今週の俳句テーマ『お盆の帰省ラッシュ』

最下位:才能ナシ


松尾諭[20点]

大合唱 蝉口閉ざす 鉄の声

松尾:写真を見て、夏の蝉の声が聞こえるよりも、車の騒音が聞こえるってかんじで、環境問題にも切り込んだ(笑)


夏井先生:私、これなにが言いたいんだろう?と随分この句に時間を取られましたね。だって、大合唱のあとに蝉がくるから、蝉が大合唱してるのかな、と思ったら口閉ざすわけでしょ。えっ、口閉ざすの?と思ったら、得体のしれない“鉄の声”。写真見てない人には得体のしれない声ですよ、これ。で、いま仰りたいことが分かった上で、さらに言わせていただきますが、蝉とか車とか、こうゆうモノに対して大合唱という擬人化を使う、こんな陳腐な擬人化は止めて頂きたい。まず、これが罪深いです。
さらに、“口閉ざす”という擬人化、もうね、才能のない人は比喩と擬人化でなにかやった気になる。さっさと口はつぐんで頂きましょう。(“口閉ざす”を消す)“蝉”“鉄の声”、2つだけ残しましょう。はっきり言います、蝉の声を消してしまうような渋滞の音だ、鉄の声だってことが言いたいわけでしょ、いま聞いた限りは。
“蝉の声 消す”とさっさと言うんです、大合唱してる場合じゃありません。ここから、“鉄の声”がなんなのか、書くだけです。渋滞なんでしょ?

蝉の声 消す渋滞は 鉄の声

これぐらいにすれば、ひとまずあなたの言いたいことは伝わります。“蝉の声”“鉄の声”、同じ言葉を使って辛うじて俳句っぽい空気は醸し出してみましたが、こうしたところであんまり才能はない句です。

第4位:才能ナシ


田中直樹(ココリコ)
[25点]

里帰る ブレーキランプは 赤蜻蛉

田中:下りの渋滞のブレーキランプの赤が赤蜻蛉に見えた、赤蜻蛉ではなくブレーキランプに秋を感じて詠んだ句です。


夏井先生:もう“ブレーキランプは赤蜻蛉”まで来たときには、投げて捨てようかと思いましたよ。“里帰る”も説明なんですよ。里に帰るというのを説明してるだけですね。ブレーキランプで映像が出てくるので、ここから持ち直すのかと思ったら、“ブレーキランプは赤”、『ああ、そりゃ赤だけど』と思ったら、“蜻蛉”、そこの着地!?みたいな(笑)才能のない方は比喩したらやった気になる。
“里帰る”って言うんじゃなくて、ブレーキランプがずっと並んでるんでしょ、下り車線だか、上り車線だか、下りかな。“下り車線のブレーキランプ”ってしっかり書けば、里帰るって書かなくてもみんなわかる。
田中:ほおー。
夏井先生:こんな所で感心してる場合じゃないの。諸悪の根源はこれ、“は”。ここの一文字でつまらない比喩に流れ込んでいくわけですから、これは諦めてください。これをやってたら永遠に才能ナシです。“下り車線のブレーキランプ”でカットを切ります。“赤蜻蛉”(笑)、一応おいておきましょう。

下り車線のブレーキランプ 赤蜻蛉

下り車線はブレーキランプがついているんだな、渋滞なんだな、その周りには初秋の赤蜻蛉も飛び始めてる、そうゆう風に詠み手は読んでくれます。そして、まれに赤蜻蛉の「赤」とブレーキランプの「赤」、一緒だなと思ってくれる人が、まれにいると思う。その確率に期待しましょう。

第3位:凡人


新妻聖子
[45点]

いざなわれ 門をくぐれば 初秋や

新妻:渋滞ってネガティブなイメージしかないじゃないですか。お家に帰ったら、もうお家を出た時の夏という季節は過ぎ去りし、高速のレーンにいざなわれ、もうこっちに進むしかなくて、その高速の出口を門に見立てて、そこをくぐったら、もう秋の始まりがあるんだな、という気持ちで詠みました。


夏井先生:“初秋”って季語、とても綺麗な言葉ですよね。綺麗な言葉なんだけど、こうゆう時候の季語は映像を持ってないんですね。で、“門”というのがぼんやりわかる、誰かが誘ってて、誰かがくぐってるのはわかるんだけど、あの写真を見てない人にあなたの言いたいことが伝わるかって言ったら、全く伝わりません。こうなってきたら、申し訳ないけど、優雅に“いざなわれ”とか言ってる場合じゃないです。なにがどうする、って“渋滞”って言葉を入れないと、まずあなたの言いたいことは全く、100%誰にも伝わりません。“渋滞”って書きましょう、ひとまずね。だって渋滞なんだもんね、ひとまず“渋滞”って書いたら、渋滞の光景というのが読んだ人に浮かんでくるでしょ。
“渋滞を抜け”ぐらい書いていただいたらわかるかな? ここからですよ、抜けたら“初秋”があるんでしょ? “初秋の門をくぐる”と。

渋滞を抜け 初秋の門くぐる

そうすると、少なくともあの渋滞抜けて、やっと渋滞じゃないところまで行って、『初秋の門が明けたわ』と思う、と。
うわー、久しぶりに焦ったw

第2位:凡人


二階堂高嗣(Kis-My-Ft2)[55点]

金剛峰寺に 爽やかな顔触れか

二階堂:ホント細かく絞ったんですよ。(写真の)高速のあそこ、見てください、標識。あれが『海南』なんです、和歌山県なんです。金剛峰寺も和歌山県にあるお寺なんです。で、お盆の季節なんで、金剛峰寺に参拝して、いろいろ気持ちもスッキリした帰り道、を詠んだ。


夏井先生:いや、ビックリした、そこから金剛峰寺が出てくるんだ。いやー、あの写真からよくこのね、固有名詞が出てきたなぁと思って。それは感心しました。で、“金剛峰寺”という地名と、季語がこの“爽やか”ってのが秋の季語になるんですね、この2つの取り合わせもなかなかセンスあるな、と。褒めるべきところはあるんです。
となったらね、語順がもったいないんですね。金剛峰寺から始めるよりは、目の前の顔触れがそこに集まってるよ、という映像から始めた方が、結果的にこの季語が得をしてくる。
二階堂:えっ、“顔触れか 爽やかな 金剛峰寺に”だったらよかったの?
夏井先生:アホ!
一同:(笑)
夏井先生:今から手を入れるから、待って。まず、顔触れがどうしているのか、丁寧に語らないといけない。「顔触れが集まった」とか「揃った」とか、そういう言い方ですね。“顔触れが集う”という言い方と“顔触れの揃う”という言い方、どっちがいいですか?
二階堂:つどう。
夏井先生:わかった。“顔触れのつどう”ぐらいにしましょうかね、集まってるわけでしょ。なんかわからないけど、顔馴染みの人たちがつどっているというその場が生まれますね。ここから金剛峰寺に行きましょうよ。“顔触れのつどう 金剛峰寺”、“に”は要りません。で、“爽やか”の別の言い方で“さやか”ってのがある。ここまでくれば、

顔触れのつどう 金剛峰寺 さやか

そうすると、金剛峰寺の秋を迎えた、ちょっとひんやりする風とか景色とかがスッーと立ち上がってくるわけですよ。この語順を選べることができたら、”才能アリ”にちゃんといけるだけのものを、いま君は積み上げてきてる。それは保証する。

第1位:才能アリ


筒井真理子[70点]

送り火を 託して戻る 芝居小屋

筒井:(実家に)帰ってもすぐ家族に託して芝居小屋に帰る、その気持ちを、反対車線の1台、スイスイ来てる(車の)気持ちで。


夏井先生:あの兼題写真からこうゆう場面を想像できる、そこがいいんです。芝居小屋という、この言葉によって作者の状況が一発で想像できる。そこら辺の言葉の選び方が巧みだったと思いますね。で、“送り火”という季語、“託して”“戻る”という動作、最後の“芝居小屋”、それぞれの言葉がそれぞれを邪魔していないというのを実現できていますね。で、ちょっともったいない所もあるんです。どこかというと、真ん中なんですが、「託す」思いと「戻る」動作をこうやって一緒にグチャってすると、ここがモタモタするんです。さらに、“託して”の“て”の一音がちょっと緩むんです。臨場感というものを一句の中に作るのはとても大事なことなんです。ですから、語順をちょっと変えて“て”の一音を別の助詞に変えると、その臨場感が少し変わってきます。やってみますね。“送り火を託し”、こっから“芝居小屋”にスッと行くんです。

送り火を託し 芝居小屋へ戻る

この“て”のゆるみがなくなるんです。最後、戻るという動作が読み手の脳裏の中に入ってきますから、戻っていく闇の背後に置いてきた送り火の存在を感じながら、戻っているのだなぁ、としみじみと送り火を思う心が読み手にヒタヒタと伝わってくる。
浜田:先生、3回連続で筒井さんは”才能アリ”なんですけど?
夏井先生:(特待生には)ちょっと早いかなぁ。あのね、最初がお兄さんの戦争の句、それから原爆、そして今回が送り火でしょ、ちょっと違った方向からの句を一回見せて頂いて判断させていただきたいな、と思います。
筒井:はい、次チャレンジします。

名人2段


東国原英夫
[1ランク昇格]

鎌で切る 鶏の首 盆支度

東国原:田舎で、うちの祖母・祖父の家、農家なんですね。そうすると祭事だと、自分とこで飼っている鶏を潰すんですね、おもてなしのために。残酷なんだけど、感謝もする、そして盆がはじまる、というような気持ちを、この、この1枚の絵を切り取る、この動作。。。
浜田:わかったよ!(笑)


夏井先生:この句の評価のポイントは、季語“盆支度”がこの位置に来たことが成功したか、どうか。
はい、こうゆうのが出てくるか、と驚いてしまいました。私も子どもの頃こうゆう光景、うちのじいさんがこうゆうことをやるって光景、記憶がありますね。隠れていた記憶がこの句で蘇ってきたような、そんな気も致します。
良いところから褒めてまいりましょう。まず、“鎌”から入りますね。鎌って言ったら「切る」か「刈る」か、ですから、この動詞がいるのかな?という判断を持ち越しながら次に行くわけです。そうすると、いきなり鶏が出てくる、しかも“鶏の首”ってきた瞬間にこの“切る”という動詞が必要であることがわかりますね。“鎌で切る 鶏の首”、ここまででまぁなんて残酷な、と引いていく人もいるかもしれませんけれども、このあとの季語がうまいもんですね、これは。最後に“盆支度”がくると、一見残酷に見えるものも、お盆の魂を迎える、お客様を迎える、親族を迎える、それをもてなすための盆支度のひとつと思わせるわけです。これが逆から来たら悲惨になります。“盆支度 鶏の首 鎌で切る”。
一同:(笑)
夏井先生:やってみると悲惨でしょ? だから、この季語がどこに入るか、がこの句の肝なんです。この順でやると、そうか、鶏の首切ることも、墓のそうじしておくことも、座敷をきれいにそうじすることも、全部が盆支度なんだ、と。これ以外のことがずっと浮かんでくる、このあたりのね、語順をちゃんとわかってるから名人ですよ。今日は感心しました、本当に。見事!

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